2007年

ーーー12/4ーーー めまい

 9月の始めのある日、突然目眩が起きた。朝、目が醒めた直後である。寝返りを打つと、周囲がぐるぐると回って吐き気がした。

 以前にも一度、目眩が起きたことがある。松本の市営住宅にいたときだから、18年前になるだろうか。この時は症状がひどく、立ち上がることができなかった。トイレへ行くにも、這っていった。翌日には治まっていたが、心配になったので近くの医者へ行った。医者は、「目眩は原因が分からないものが多いのです」と、苦い顔をした。ともあれ重大な病気ではなかったらしく、症状は嘘のように消え、それを気に病むこともなくなった。

 その時と比べると、今回はなんとか立ち上がることができたので、目眩そのものは軽めだったと言える。しかし、とても普段通りの生活はできず、一日横になっていた。翌日になると、目眩は消えていたが、多少のふらつき感は残っていた。

 その直後に、あらかじめ予定されていた友人の訪問を受けた。その友人は、メニエール病の経験者で、自称「目眩のプロ」だった。私が目眩のことを話すと、脳のCTを撮ることを勧められた。メニエール病や目眩のメカニズムについても教えて貰ったが、とにかく脳の検査だけは、早めに受けた方が良いとのアドバイスだった。

 松本の総合病院へ行った。外来受付で症状を話すと、すぐに脳外科へ回され、CTを撮られた。画像を見ながら、医者は「異常ありません」と言った。今回の目眩は、年齢的なもの、季節の変わり目、疲れ、ストレスなどによるものではないかとの説明だった。一度目眩が起こると、2週間くらいはふらつき感が残るものだとも言われた。ともかく、治療も投薬も無しで、普段通りの生活をして構わないと言われて病院を出た。

 その後、軽いふらつき感と、わずかな耳鳴りを感じながらも、いままで通りの生活を送って来た。18年前のように、きれいさっぱり治るということは無く、違和感を残したままであったが、少々のことには目をつむるという感じで過ごして来た。

 先週末くらいから、またふらつき感が気になりだした。軽い乗り物酔いのような症状も感じるようになった。その話をある知り合いの人にしたら、脳以外の検査も受けた方が良いと言われた。「あなたも歳なんだから」と付け加えられた。

 先週の金曜日に、近所の内科へ出掛けた。医者にいきさつを話したら、血圧を測り、胸に聴診器を当てた。それだけして、耳鼻科へ行きなさいと言った。内科的な症状は無いとのことだった。私は血液検査くらいして欲しかったのだが、それも省かれた。どうも最近の病院は、検査を手控える傾向があるようだ。

 その足で耳鼻科に行った。この耳鼻科の診察券は持っていたが、行くのは何年かぶりだった。以前は、いつ行ってもひどく混んでいたが、今回は比較的空いていた。その理由は分からない。

 医者に一通りのいきさつを説明すると、聴力検査と平衡感覚のテストをやらされた。その結果を見ながら、医者は軽いメニエール病の症状だと言った。内耳に少し異常があり、過労、睡眠不足、酒の飲み過ぎ、タバコの吸い過ぎなどによって体にストレスがかかると、目眩系の症状が出るとのこと。私はタバコは吸わないし、過労や睡眠不足も自覚していない。強いて言うなら酒の飲み過ぎかも知れないが、ひょっとして無意識の部分で精神的なストレスがたまっているのかとも思った。

 薬を一週間分いただいた。これを飲みながら様子を見て、一週間後にまた来なさいと言われた。飲みはじめて四日ほど経つが、今のところこれといった変化は無い。 



ーーー12/11ーー アンデスの銀細工

 
11月始めの「安曇野スタイル」のときのこと。午前の暇な時間に、参加者それぞれが作っている宣伝チラシのファイルを見ていたら、コンドルの姿をモチーフにした銀細工の写真が目についた。その作家は、期間中あるペンションに作品を展示し、販売するとあった。そこは私の家から5分とかからない場所であった。しかし、こちらもお客様を迎える立場で、自宅を離れるわけにはいかず、諦めた。

 私は南米アンデス地方の民族音楽であるフォルクローレが好きで、自分でもケーナやサンポーニャといった楽器を少々たしなんでいる。フォルクローレの名曲「コンドルは飛んで行く」に代表されるように、アンデス地方ではコンドルが神聖なものとして扱われ、人々の心のよりどころになっている。フォルクローレから入り、アンデス地方の風物に関心を持つようになった私は、コンドルに惹かれるようになっていた。

 銀細工の作者は、ホルヘさんというアルゼンチンの人である。そのチラシによると、ホルヘさんの先祖はアンデスの民で、ホルヘさんも伝統的なアンデスの心を作品に込めているとあった。それでますます欲しくなった。

 先日「安曇野スタイル」の会合があった。そこにホルヘさんも参加していた。彼に会うのは初めてである。これは願っても無いチャンスだと思った。そこで会議の後、私はホルヘさんのそばに寄り、作品を見たいと申し出た。彼は自分の工房に来てくれれば見ることができると言った。

 その日の夕方、ホルヘさんの工房を訪ねた。農家の古い建物を借りて住んでいるようだった。その一室が工房になっていた。四畳ほどの狭い部屋は、工具や材料でゴチャゴチャになっていた。明らかに貧しい感じでもあった。正直なところ、こんな場所で作品を作っているのかと思った。

 作品の現物と写真を見せて貰った。見ているうちに引き込まれて行った。コンドルの姿も何種類かある。その中から気に入ったものを一つ購入した。さらに、写真集の中の渦巻き模様の小さな作品に心を引かれた。それを娘へのプレゼントにしようと思った。在庫は無いが、少し時間をもらえればその場で作ると言われた。作るところが見られるというのも興味深いと感じ、お願いした。
 
 銀の針金をラジオペンチで曲げて模様を作り、最後にハンマーで叩いてつぶして出来上がり。それだけの単純な作業である。しかし、出来上がったものはとても美しく、愛らしく感じられた。わずかな道具と単純な作業で作られるところが、純粋な創造的世界を感じさせた。

 工房に滞在したのは二時間ほどであったろうか。ホルヘさんと話をして楽しかった。とても素朴で純粋な感じの人柄だった。こう言っては何だが、せちがらい現代日本社会ではもはや忘れ去られたような、ほのぼのとした、暖かい雰囲気を感じさせてくれた。会話は楽しかったが、話しているうちに、なんだか悲しいような気持ちになったのは、何故だろうか。

 家に戻って娘に渦巻き模様のペンダントを渡すと、いちおう喜んだ様子だった。数日後、娘はそれを着けて学校に行った。友達から褒められ、羨ましがられたそうである。得意な面持ちで帰って来た。



ーーー12/18ーーー バロックコンサートにて

 地元のある商業施設で小さなコンサートがあった。三人編成の、バロック音楽である。ふだんはレストランとして使っている場所を、会場に作り変えていた。入った瞬間、なんだか変だと感じたのだが、次第にその心配は現実となった。

 客席は70ほど準備されていたが、そのうちの約3割は演奏者と同じフロアーで、残りの7割がたは一段高いフロアーに詰め込まれている。その一段高い場所に入った者は、最前列に座れたラッキーな人たちを除き、演奏者のいる場所が見えない。見えるのは前の人の背中だけである。

 客席は、受付でもらった整理番号に従って座る。私は幸いにも、演奏者と同じフロアーに一つだけ残っていた椅子に座ることができた。一緒に行った家内と娘は、空席を求めて一段高いフロアーの奥に消えて行った。

 途中の休憩時間に、家内と娘が私の所にやってきて、演奏者が見えなくてつまらない、と不平を漏らした。「まるでレコードコンサートのようだ」と。

 下のフロアーには、椅子を置けるスペースがまだ残っている。私が「椅子を持って来て、下のフロアーに座ったら?」と言うと、二人は「そんなことをしたら多くの人が真似をして、混乱するだろう」と反対した。

 それじゃ、立ち見にしたらどうだろう。立ち見なら十分なスペースがある。主催者に申し出て、許可を得れば良かろうと私が言った。家内は怖じ気づいて、「もう、いいわ」と言った。すると娘が、「わたしが話してくる」と言った。そして、会場係とおぼしき中年男性のところへ行った。

 主催者側は、しばらく協議をしていたようである。そして、休憩時間が終わる時、説明があった。

 「お客様から、上のフロアーから全く演奏が見えないとの指摘を受けた。この客席の配置は、事前に音響効果を調べた結果として決めた。しかし、演奏が見たいという申し出があったので、希望される方は、多少音響が悪くなるけれども、下のフロアーの空いてる場所に移動しても構わない」とのことだった。

 それを聞いて、何人かの人が椅子を持って降りて来た。私は娘に席を譲り、家内と二人で立って見ることにした。気のせいかも知れないが、後半の方が、演奏会の雰囲気がリラックスしたような気がした。

 小さい頃は、ろくに挨拶もできない子だと、他人から冷ややかに見られたくらい、引っ込み思案な娘だった。それが高三になった今、ずいぶんしっかりした感じになったものだと、驚いた。

 後で聞いたのだが、会場を出るときに、娘は話を取り次いでくれた会場係にお礼を言ったそうである。その中年男性はテレていた様子だったと娘は言った。
 


ーーー12/25ーーー 丸ノコの寿命

 木工に刃物はつきものである。刃物は使ううちに切れ味が落ちるから、研がなければならない。手に持って使う刃物、つまり小刀、カンナ、ノミなどは、ほとんど全て自分で研ぐ。ドリル刃なども自分で研ぐ。手加工の刃物の中で、自分で研げないのはノコギリくらいのものである。
 
 一方、機械に取り付ける刃物は、自分では研がない。それらは特別に固い金属から出来ているので、砥石を使って手で研ぐのはほとんど不可能である。また、無理に研いだとしても、手で研ぐ場合には、均一に研げないこともある。つまり、刃物のバランスが崩れてしまう恐れがある。手加工の道具と違って、機械は融通を利かせてくれないから、バランスの崩れた刃物では具合が悪い。そこで、機械に使う刃物は、専門の研磨業者に頼んでいる。

 画像は丸ノコ盤に使う刃をクローズアップで見たものである。円盤状の金属板の周に沿って、多数の小さな歯が付いている。二枚重ねて撮影してあるが、上の方は開業以来使っているもの。そして下の方は先日購入したばかりで、まだ使っていない新品である。丸ノコの刃は、縦挽き用と横挽き用があるが、これらはいずれも縦挽き用である。

 新品の方は、歯先にチップと呼ばれる金属片が付いているのが見える。これは固い超硬合金で出来ていて、切削の主役となる部分である。しかし、いくら固いといっても、使っているうちに次第に角が丸くなる。それを削って角を立てるのが研磨業者の仕事である。

 開業以来使っている刃の歯先を注意して見ると、チップの最後の一片が、消え入りそうになって残っているのが分かる。17年間の間に、これほど減ってしまったのである。こうなるともう、寿命に近い。研磨業者の話では、あと1、2回研磨したらチツプが消滅して、終わりだとのことであった。

 このような状態になると、研磨しても切れ味はすぐに落ちる。歯先の張り出し(アサリと呼ぶ)が摩耗して小さくなっているので、木材に切り込むと円盤の面が材に当たって熱が発生する。そのため切れ味は短時間で低下する。切れ味の悪くなった刃を使うと、加工精度が悪くなる。

 私は、同じ目的の丸ノコ刃を、最低二枚ずつ持っている。それらの切れ味の状態を見て、荒い加工と精密な加工に使い分けている。この長年使った刃は、もはや荒い加工にしか使えない。それも、じきにお役御免となるだろう。

 世の中には針供養などという習慣があるが、役目を終えた木工刃物も、やはり供養をしてあげるべきだろうか。



 
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